2011/5/1〜色々な「物語」(〜4/30・掲示板開設までの間に)

棋士VSコンピューター(2)

-----------------------------------------
ハンガリー出身の数学者で、二〇世紀の最も偉大な科学者の一人といわれるジョン・フォン・ノイマンはポーカーやチェスを楽しみ、ゲームの数学的な仕組み(ゲーム理論)を研究していた。一九二八年、ノイマンは論文「室内ゲームの論理」で、完全情報ゲームには必ず最善の手がある、ということを数学的に証明した。
この証明を「ミニマックス定理」という。ミニマックス定理に従えば、将棋やチェスでは、双方がそれぞれもっとも利益が大きくなる手、もしくは損失が最小になる手を指していけば、先手必勝か、後手必勝か、あるいは引き分けで決着することになる。
(「閃け!棋士に挑むコンピュータ」(田中徹・難波美帆・梧桐書院刊・2011年2月刊より引用)
-----------------------------------------

例えば「居飛車」と「振飛車」戦法としては、どちらが優れているという結論が将来、導き出されるのだろうか。そもそも本当のところは、先手番と後手番、どちらが有利なのだろうか。仮に、先手番振飛車が最も優れた戦法になったとして、後手番はどんな戦法を用いてもそれを覆すことはできないということになるのだろうか。理系音痴の私には、そもそも「こういう仮定の立て方」が正しいのかどうかも、実は極めて危ういのだが、そんな私にも実に想像力を掻き立てる一冊になっている。

私はFC(ファミリーコンピューター)の将棋ソフトを発売当時、買い求めて遊んだことがある。当時のソフトは、それこそ「頭金」というか、詰むまで「負け」を認めない。必死をかければ、相手は「王手」の連続になる。根拠のないというか、ただただ「王手」を無意味に続ける。滑稽でもあり、いじらしくもあった。本書には、開発当初のコンピューターは反則負けを何度、宣言したか、記憶にないほどで、存在しない五枚目の駒が突如、登場したり、駒がワープするように遠くへ移動したり、ということが生じたという。

そのコンピュータは今や当時の女流王将を「平手」で勝利した。三十五年の時間がかかっている。凄いことだ。

-----------------------------------------
将棋の始まりから終わりまで、現れうる全ての局面の数は、一〇の二二六乗だ。これが、「あから2010」という名前の元になっている。つまり、ある局面から次にありうる局面の数を平均八〇とすると、二手目は八○×八○で六四〇〇局面、三手目には六四〇〇×八〇で五一万二〇〇〇局面、四手目で五一万二〇〇〇×八〇で四〇九六万.....と、局面の数はほぼ無限に広がっていく。
わずか一〇手で、局面の数は一〇七三京七四一八兆二四〇〇億である。コンピュータが一分に一億局面を読んだとしても、すべて読み切るために二十万年以上かかることになる。
宇宙が誕生して以来、一三七億年経ったといわれているが、宇宙誕生の瞬間から計算し続けたとしても、すべての局面を検討すると、現在までにわずか一二手目までしか読めない。事実上、対局開始から終わりまで、すべての手を読み切るのは不可能ということだ。
(「閃け!棋士に挑むコンピュータ」(田中徹・難波美帆・梧桐書院刊・2011年2月刊より引用)
-----------------------------------------

これでは「必勝法」などできはしないと私は考え、喜んだ。ところが「評価関数」や「探索」更には自動で評価関数を調整する「機械学習」に成功し、それらが更に洗練されるようになる。つまり、無駄な手は読まない技術が備わってきたのだ。今や最強クラスのコンピュータに勝てるのは「プロも含めて全国に数百人程度ではないか」と情報処理学会副委員長の松本仁氏は語る。氏は二七歳のときにアマチュア五段を取得。しかしコンピュータに二〇〇五年には抜かれ、二〇〇七年には歯が立たなくなった、とも振り返る。

私は「清水市代女流王将(当時)VSあから2010」の対局で、今でも鮮明に記憶していることがある。そのことが報道で報じられたときに、胸が熱くなった。対局室となった「電気系会議室2」には、歴代の工学部教授の写真が飾られていて、この対局を見下ろしていた。それに対して清水さんは「私も写真を置きたい。米長先生の写真を」と希望した。米長会長は自分と羽生善治名人の写真を用意させたという。

当日、私は、清水さんは高柳門下ではないか。羽生名人はともかくとして、何故、中原誠一六世名人の写真がそこにないのか。或いは貴方を孫のように可愛がった高柳敏夫名誉九段ではいけなかったのか、単純に憤ったことを覚えている。しかし彼女は「その小さな肩に、過去ではなく現在の自分と未来の棋界を背負って戦ったのだ」ならば、この選択は頷ける。

私は今、こう思っている。次回の対局者は「コンピュータ」ではない、それを開発した人間と戦うのだと。これはやはり「人と人との勝負」なのだと。だから私は次の対局が、楽しみで仕方がない。きっと結果以外に、沢山のドラマがそこには生まれるはずだ。

                              JC IMPACTU



トップへ
戻る
前へ
次へ




inserted by FC2 system