2011/5/1〜色々な「物語」(〜4/30・掲示板開設までの間に)

一冊の本から。

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 礼儀とか上下関係とかいうと、それこそ時代錯誤だと言われかねない時代だ。俺も弟子たちをたけし軍団なんて呼んでお笑い番組のいわばエキストラとして使っていたら、権威主義だとかお山の大将だなんて批判されたことがある。映画のエキストラが何百人斬り殺されたところで何も言わないが、お笑いの場合は話が違うらしい。俺にはその違いがちっともわからない。彼らに礼儀を厳しく躾けたのは、何も俺があいつらにカバンを持たせたり、おしぼりを持ってこさせたかったからではない。弟子入りするときに「覚悟を決めました」なんて言う奴がいるけれど、覚悟を決めるのは師匠の方だ。自分の生んだわけでもない子供を持つようなもので、こいつが面倒を起こしたら自分が全ての責任を取ると覚悟しなければ、とても弟子になんかできはしない。

 礼儀を躾けるのは、それがこの社会で生きていく必要最小限の道具だからだ。社会を構成しているのは人間で、どんな仕事であろうとその人間関係の中でするしかない。何をするにしても、結局は、石垣のようにがっしりと組み上がった社会の石の隙間に指先をねじ込み、一歩一歩登っていかなければ上には行けない。その石垣をどういうルートで登るかを教えてやることなんてできはしないのだから、せめて指のかけ方は叩き込んでやろうと思っている。

 子供のためを思うなら、バラ色の未来を吹き込むなんてバカなことはさっさとやめて、人の世で生きるための礼儀を躾けるべきだ。ネットに悪口を書くだけで満足して、自分は何もしようとしない子供にしたいなら話は別だけれど。

(北野武「超思考」(幻冬舎刊・2011年2月刊より引用)
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私はweb上で、いわゆる「礼儀」「お行儀」云々を対論者に求めたことは、おそらく一度もない。従ってネットで謝罪を求めたことも、一度もない。ただし、求めないからといって、自分が考えないかと言えば、勿論そういうことでもない。年齢をとったせいもあるのかもしれないが、最近読んだこの一節に、私は少なからず感銘を受けた面がある。

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 政権交代だの何だのと世の中は騒がしいけれど、もちろん俺はそんなものには何の期待もしていない。ただ投票には行くつもりだ。今までも、ずっと投票だけは欠かしたことがない。それが国民の義務だとかいう話ではなく、政権交代したら面白いだろうと思うからだ。俺としては民主党に政権を取ってもらって、誰がやっても同じだというのを見せてほしいわけだ。天下りを全部なくすというのだって、絶対に嘘だと思っている。嘘が言い過ぎなら、無理だ。税金の問題も社会保険の問題も、海外派兵の問題にしても、民主党が政権を取ったらどれだけやれるか、日本が変わるかといったら全然できないし何も変わらないと思っている。誰がやっても落としどころは決まっているし、ほぼ同じようなことにしかならないはずだ。だからこそ、自分の想像通りだということを確認したいのだ。「やっぱり駄目だったな」という確認だ。無責任極まりない考え方だけれど、そのくらいしか選挙なんかに期待が持てないのだから仕方がない。

 少し真面目な話をすれば、まず大前提として、誰にとっても都合のいい政府なんてものがあるわけがない。社会の理想として「自由と平等」が言われるけれど、そもそも自由と平等が両立することはあり得ない。みんなが自由にやれば、差がつくのは当たり前の話だ。格差社会は自由な社会の必然の帰結というわけだ。それじゃあまずいだろうということで、格差をなくす方向に進めば、個人の自由が犠牲になる。その極端なのが社会主義や共産主義だ。人間が頭の中だけで考えた理想が、単なる空論でしかなかったことは、ロシアの姿を見ればよくわかる。お前らはいったい何のために、何十年も窮屈な社会主義を続けてきたのかと聞きたくなるくらい、現在のロシアはものすごい格差社会だ。

 とはいえ、それはロシア人が悪いわけではなくて、結局のところ、人間の社会というものは、そういう具合に行ったり来たりしなければ、前進できないということだろう。(中略)

 そう考えれば、右だろうが左だろうが、どっちが正しくてどっちが間違っているとは言えないということになる。間違っているとしたら、自分だけの考え方だけが正義で、他は間違いだと決めつけることこそが、大間違いなのだ。だから俺は、政治的な議論には、あまり意味がないと思っている。(中略)

 政権交代だの政界再編だのと、世の中は騒いでいるけれど、あんまりいい加減なことをしていると、そのうち民主主義なんてまやかしは、もううんざりだと本気で言う人間が増えるんじゃないか。何百人もの政治家を養うより、一人の独裁者を養う方が経済的だという考え方もある。独裁者だろうが何だろうが、その人間が上手く政治をやってくれればそれでいいのだ。それに独裁者を求める心というのは、神様を求める心と、本質的には何も変わらない。信じてさえいれば、絶対服従は喜びなのだ。(中略)

 今の政治に文句があるなら、いちばんいいのは文句を一切言わないことだ。国民が主人だなんて理想論は放り投げて、自分たちは政治家や官僚の持ち物なのだということを、はっきり認識させてやった方が早い。何を言われても、何をされても、「はい」「はい」と黙って聞く。そのかわり、何もしない。税金も払わなければ、投票にも行かない。

 文句も言わない。口答えもしない。そのかわり、お茶の一杯も入れない。夫に愛想をつかした女房みたいになるわけだ、

 国民全員がそれをやったら、面白いことになるだろうなと思う。国民全員が税金を払わないと言ったら、取り立てる手段はおそらくない。選挙だって誰も行かないということになったら、自分と家族の何票かで衆議院議員になっても、笑われるだけだろう。権力者というものは、口で何と言おうと、みんな心の底では国民を持ち物だと思っているのだ。自分たちのために働いて、税金を納める持ち物だから、逃げられるのがいちばん恐い。それならば、自分たちはどうせ持ち物だと開き直って、ガンジーの無抵抗主義を貫くのがいちばんいい薬になる。(中略)

 政治がどうにもならなくなっていることも、核兵器や大量破壊兵器がなくなった方がいいということも、今の地球に生きている人間なら、ほとんどがわかっているはずなのだ。わかっているのにどうにもできない。このままでは未来永劫どうにもならないと思う。

 政治家が「先生」と呼び合うバカな小さな習慣ですら、変えられないのが人間というものなのだ。歴史を巻き戻してやり直すしか、道は残されていないんじゃないか?
(北野武「超思考」(幻冬舎刊・2011年2月刊より引用)
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勿論、これは「意図的な暴言」である。現実的な話ではない。しかし、この「暴言」の背景にあるものを、真面目に考えるということは、おそらく大事なことではないだろうか。

私は「民主党」に投票したことは一度もない。「もっと悪くなる」と思ったからだ。従って良心の呵責に苛まれるということはなかったが、こんなに酷いとも思っていなかったわけだから、そんなことは自慢になどなりはしない。

ただ今思えば、小泉政権というものは、数の問題以上に、やはり独裁的な時代だったという気はする。メディアの役割が果たせなかった時代といってもいい。あのライオンヘアと人懐っこい笑顔は、それだけでとは言わないが、メディアを敵に回さなかった。自民党の中の少数勢力が天下をとった。自民党総裁選がおらが町の人気投票のように繰り返し繰り返し伝えられた。派閥は機能しなくなり、小泉総理は、訪朝含めて、いくつかの劇的なドラマのタクトを振り続けた。そして投げ出さなかった。強い個人が誕生したということである。

郵政民営化解散で自民党が圧勝するなど、解散当時はあらゆるメディアは予想できなかった。一人の人間が自民党を勝たせたのである。これはやはり独裁ということになる。

今の総理大臣は「物事を考え抜いたという経験」が「ない」のではないか。そんなことを思ったら、実に憂鬱な気持になってしまった。

                                    JC IMPACTU



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