2011/5/1〜色々な「物語」(〜4/30・掲示板開設までの間に)

谷川浩司十七世名人-復活の約束- (1)

谷川浩司九段が1200勝を達成 !  という記事が日本将棋連盟のHPに掲載されている。

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なお、谷川九段の1200勝は四段昇段後34年2ヶ月で中原十六世名人の33年8ヶ月に次ぐ2番目の早さです。 
また、年齢48歳11ヶ月での達成は将棋界で最も早い記録です。
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1962年4月6日生まれ。私にとって、ここに何気なく記された「48歳11ヶ月」という文字は、ひとつの意味を有している。谷川十七世名人は今年の4月で49歳。そう、来年の「名人戦」が開幕する頃には、氏は50歳になる。

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私は二十一歳のときに名人になり、史上最年少の記録を作った。これはいまも破られていない。
また、三十五歳のときに、五期目の名人位を獲得したことで十七世名人の名誉を頂いた。
そんな私にもまだ、挑戦できる記録が残っているのだ。それは米長永世棋聖のつくった最年長名人という記録である。
米長永世棋聖は五十歳の直前に念願の名人位を得たが、これがいまのところ、最年長記録である。大山康晴十五世名人がもっと年上だったイメージを持つ人も多いようだが、名人位を失ったのは米長永世棋聖よりも僅かに若い四十九歳だった。
最年少名人と最年長名人。
この二つを手にできたら、棋士として、これほど素晴らしい生涯はないだろう。
だから、この記録はわたしにとって十数年後の大きな夢なのである。
(「ちょっと早いけど僕の自叙伝です。(改訂版)」2000年12月25日初版発行 より引用)
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この一節に接したときに、私は実に不思議な気がしたことを今でも覚えている。大山康晴十五世名人や中原誠十六世名人は、ある意味、自著にこんな弱々しい、十数年先のことなど書きはしない。この頃、谷川十六世名人の称号は九段、つまり無冠である。名人は佐藤康光九段だった。

「達観」というのとも少し違う。「無欲」というと、そうかもしれないが、多くの谷川ファンはそういうことを望んではいない。今期の名人戦、中原十六世名人が引退してからは、実は私は羽生名人や渡辺竜王ではなく、谷川九段だけを内心、注目していた。そのことは億尾にも出さなかったつもりだ。口にすれば壊れそうな気がしたのである。飛翔どころか失速である。それでも私は、引用したこの著作のことを覚えていたから、4月からの名人戦の結果、羽生名人が防衛しようと、森内九段が奪取しようと、来年の名人戦は、50歳の挑戦者が必ずや誕生することを信じて疑わない。そうでも思わなければ、些か哀しいという面が私にはある。

谷川九段が初めて名人位に就いたのは1983年(昭和58年)の第50期だった。この時の名人は加藤一二三九段。「中原名人から奪取したわけじゃなし」と、私は何とはなく醒めていたことを今も記憶している。森九段はこう言い放った。

「昨年の名人戦で燃焼し尽くし、今年は燃えカスしか残っていなかった。谷川君じゃなくても誰でもとれた」
「僕は嫌いだ。何かいい子ぶってて」(名人位を1年間預からせていただきますという発言を聞いて)

この頃、谷川「名人」に猛然と闘志を燃やしたもうひとりの棋士に田中寅彦九段がいた。
「あれでも名人か」

今、振り返れば「関西所属の棋士」が「名人」ということに、少なからずの抵抗みたいなものがあったのではないかという気がしなくもない。

1995年1月17日、阪神淡路大震災。谷川九段32歳。20日に谷川王将は大阪の将棋会館で対局を行っている。この年の3月、第四十四期王将戦では最終局で千日手、指し直しの結果、羽生七冠達成を阻止した。

谷川十七世名人には、来年の名人戦にぜひとも名乗りをあげて欲しい。そして「最年長名人」を達成して欲しい。私はそのことを切に願っている。「復活」を約束した、その年は来年。この約束だけは果たしてくれるものと私は信じている。

                                    JC IMPACTU



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