2011/5/1〜色々な「物語」(〜4/30・掲示板開設までの間に)

湯川恵子さんへ感謝を込めて

「山口治子さん(故山口瞳氏ご令室)が今朝、亡くなられました」

3月13日(日)の昼過ぎだったか、携帯の着信音が響いた。国立市(くにたちし)にあるギャラリーの女性からの第一報である。相手先の液晶表示をみて、一瞬ではあったが、厭な予感がした。厭な予感に限って的中する。哀しいことだ。

この日、私も家内も関西にいた。業務の関係、交通手段の混乱でどうしても翌日、翌々日の通夜、告別式への参列が叶わない。3月20日(日)改めて、夫婦で国立市を訪問。喪主のご長男から「大変だったでしょう」と労いの言葉を頂戴する。それはそれで、また、辛い。

治子夫人に最後にお会いしたのは昨年の12月。「将棋」に関する、あるご依頼についての件だった。今、考えれば、何かこう切羽詰まったような雰囲気があって、普段は、そういうことを仰る方ではなかったから、その時も、私と家内は「慌てるようにして」国立の「変奇館」(ファンは山口さん自ら命名したこの名称、愛着をこめてそう呼んでもいる)を訪問した。

簡単なようでいて、ちょっと難しいご相談だった。そのことについてそれ以上、ここに記すつもりはない。
私は、湯川恵子さんにご相談をした。浅草での「落語会」前だったから、この時には面識がない。厚かましいことだったが、恵子さんは親身に相談に乗ってくださり、本当に助けていただいた。改めまして深く感謝申し上げます。

山口治子さんも、関ってくださった皆さんも、それぞれが負担にならない「絵」を描く必要があった。形は何とかできたものの、どなたにも「負荷」が生じることは避けなければならない。昨年の暮れには形は整った。そして年明け早々に、ある意味、劇的に事はうまく収まった。誰にも負担が残ることも、生じることにもならなかった。治子未亡人から、ご丁寧な「礼状」を頂戴した。それが最後の手紙になった。

最後にお役に立てたのかな、とは思う。そのことは嬉しい。しかし、今後はもうお役に立てることはないのかな、と思うと、どうにも寂しさが募る。

実は、このときの恵子さんとのやりとりがご縁で「将棋ペン倶楽部2011年春号」に寄稿させていただく機会を頂戴した。今までにも、国立の方々から「もうそろそろ、山口先生のことについて、何かまとめてみたら」というお勧めをいただいたことはあるのだが、その度に「有耶無耶にしてきた」という面が私にはある。

愛読者ではあっても私は研究者ではないし、例えば、山口瞳さんや「山口瞳の会」に巡り合わなければ、私と家内もまた、出会うこともなかったし、勿論一緒になるということもなかった。治子未亡人は、私たちの結婚を本当に祝福してくださったし、十三回忌の集いが都内のホテルで催されたときにも、改めてそのことを、まるで自身の「幸福」のように喜んでくださった。いわば「仲人」のような役割を果たしてくださったのである。

そういう方を前にして、私が何かを云々するなどおこがましいという思いが、ずっとあった。

恵子さんからふっと「背中」を押してもらったような気もする。
山口さんの没後に出された「江分利満氏の優雅なサヨナラ」を読むと、いわばこの「闘病記」にも似た作品は、決して「優雅」などというものでは、ある意味、なかった。著者はおそらく「自身の命の時間」は薄々感づいていらっしゃったし、この作品集そのものが、いわばひとつの「遺言書」のようなものでもあった。私は週刊新潮を定期購読していたから、当時、毎週毎週、山口さんの「そう遠くはないラストメッセージ」に向き合っていたというような記憶がある。

山口治子さんは、ある意味周到に旅立ちの準備をされてきた。亡くなられた病院は、瞳先生が最後に過ごされたそれと同一である。予約もされていた。

3月6日だったか、山口家にご連絡を差し上げた。春号のスケジュールをお知らせしたのである。その時、直接お声を聞くことはできなかったけれど、手元に届き次第、お送りします旨のことをご長男にお伝えした。

残念ながら間に合わなかった。僅かの時間差だった。

3月20日(日)私たち夫婦は、治子さんが生前「いきつけ」だったいくつかの店を回った。そのひとつの店、寿司屋さんで、治子さんが愛用されていた兎の絵が書かれた猪口で日本酒を呑んだ。呑んでも呑んでも酔わない酒というものは確かにある。

夜の国立を歩いていて、景色が刻々と変化をみせる。

静かに、静かに風景が寒々しくなっていく。そうして、いずれにしても「春」はやってくる。

間に合わなかったけれど、私はこの拙稿を仕上げてよかったと今では思っている。
東公平氏がペン倶楽部春号に寄稿されている。氏は治子未亡人と懇意なお付き合いが続いていて、偶然であれ、氏と同じ号に投稿させていただいたことは、私にとっても「望外」の出来事となった。

「羽生名人の扇子署名の件」で、治子夫人があの騒動に心を痛めていたことを、ふと思い出した。

3月6日、私は治子夫人に一通の手紙をしたためていた。出すことのなかった手紙になった。

今では「血涙十番勝負」「続・血涙十番勝負」共々絶版で、一般書店での入手は不可能である。治子未亡人に近々、血涙の時代を語っていただければと内心、考えていた。将棋ペン倶楽部に「登場」していただこうと思っていた。ご依頼すれば、おそらくは快諾していただけたのではないかと思っている。

色々な出来事が時に人々から時間を強引に奪っていく。そのことは惨くもあり辛いことでもある。

そうして、いずれにしても「春」は必ずやってくる。

湯川恵子さん、本当にありがとうございました。治子夫人が亡くなったあとでは、私はやはり原稿を書くことは相当に躊躇したと思いますし、しばらくは、そんな気分になれなかっただろうと、そんなことを思っているのです。
                                  JC IMPACTU



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