2011/5/1〜色々な「物語」(〜4/30・掲示板開設までの間に)

世渡り下手爺氏へ

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80.  世渡り下手爺 - 2011/04/17(Sun) 22:14 No.30894 

久々に色々な意見が出てきて喜ばしい事であると思います。

香奈ファンさん

>何を重要と考えるかで評価が分かれているのではないでしょうか。

正論であります。そして、非常に重要な事でもあるとも思います。
将棋と言うゲームを愛されているからこその話です。

金と銀さんや私等の意見は、組織としての将棋連盟を考えての意見ではないか
と考えております。結局は将棋連盟に期待をすればこそなのですよ。そして、
その考え方は衰退するかもしれない将棋界の将来・未来を考えているからだと
も思います。

逆に、今回の件を、現在の状況を打破する為の方策と考えられる方には、組織
論など意味を持たないのでしょう。

結局、突きつめるところ、将棋への愛し方の違いだけで、最終目的は「将棋界
が繁栄」することではないですか?

悲しいかな、組織の中での生活が長く、その組織を運営したり、総務的な仕事
をしておりますと、仕事柄、組織が崩壊した時の姿が目に浮かんでしまうので
すよ。

私などにとっては、法人とは、法律によって人格を与えられた、お金が血の代
わりに流れる生きている人間として、接している仕事なのです。そして、その
中に居るからこそ、その脆さも目にすることが多いものです。

一般企業では、様々なタイプの経営者の方々がいらっしゃり、強引な方もいれ
ば無茶な方もいるものです。中小企業の社長さん達は、皆さん、一家言を持つ
方が多くその独自性が会社の運命を決めますし、大きな企業ほどリスクを避け
冒険を嫌います。(単に一般論でしかありませんが)

組織の中にいるものは、その環境の中で育ち、部署によって全く違う考え方を
持つ事を必要とする場合が多いものです。例えば営業と総務。営業の人間は売
上を上げる事が第一として育てられますし、総務ではそれをどのように管理を
するかが求められるケースが多く見られます。売り上げで成績を見られる人間
たちにとって、原価管理などで縛られることは売り上げに影響し、面白い話で
ある筈はありません。

全ては、バランスの問題なのだと私は感じております。その中で、将棋界の将
来に姿をお互いに見ているのではないでしょうか。

皆さんは、私が誰であるかということはご存じでしょう。多分、将棋駒関係の
人間と思っていらっしゃる方がほとんででしょうし、会長氏の私に対する文章
を見ても、そのようになっています。確かに、それは本当ですし、私の最終目
的地でもありますが、自分の人生を考えてみると、そのほとんどが会社の再建
に立ち会ってきた、変わった人生をおくってきました。ですから、私の法人に
対する考え方は、法律や実務の素人が実戦で身につけたものであり、その知識
は一緒に行動をする法律家との動きの中での極々狭い部分での各論から出てく
るものであり、法律の素人の私には、その原則を理解しないとついてなどいけ
ないのですよ。

再建などと言うと、その会社は潰れる寸前のどうしようもない会社なのかと言
えば、実はそうでもないものです。ほとんどの場合、運営者間の考え方の相違
によるバランスの崩れが原因なのではないでしょうか。

私は、中小企業の法人しか見た事はありません。その中で、一番楽なのが、部
署間による軋轢によりバランスを崩した法人です。一番大変なのが、ワンマン
社長で急成長をした法人です。部署間の軋轢は、それをどのようにお互いの役
割の大切さを理解して頂くことにより、著しい改善を見せます。

ところが。ワンマンの力で強引に従業員を引っ張って成長をした会社は、その
ワンマンさゆえのデメリットを運営者自身が理解できない(しようとしない)
かたくなさにあります。ですからこそ急成長が出来たともいえます。

では、なぜそのように急成長をしていた法人が、急におかしくなるのでしょ
う。そのような経営者は全てを見ようとします。全てが見えているうちは、自
分なりの管理も出来、成長をする可能性がありますが、成長するうちに、その
経営者の目の届かなくなる事が多くなります。一人の経営者の目を配れる範囲
はせいぜい50人。それ以上となると、目の届かない個所が多くなり、組織と
しての力が必要となってくるのですが、そのような成長をした経営者には、そ
れまでの自信から、自分の役割を他人に任せることなど出来る筈もありませ
ん。そこにバランスの狂いが生じます。実は、このようなケースが多いもので
す。

この観点から、私などは連盟の状況を見てしまうのです。あれだけの所帯で、
殆どが個人事業者の集まりで、職責による上下関係はありません。それを、一
人の方が自分で全てを仕切ろうとしている訳です。一人で全てを見る事が出来
る規模を超えてしまっているのですよ。その仕事を信頼できる部下に委任する
ことなど(信頼を出来る部下がワンマンの為いない事が多いですが)出来ない
性格の方の如何に多い事か。また、その環境で育ってきた従業員の積極性の如
何に低い事か。「社長に任せておけば良い感覚」いうとでもいいましょうか。

全ては、組織として成り立っていない為に起こる弊害なのですよ。

いろいろな意見が出てくる事は、大事なことであり、その一つ一つにその方々
の強く・熱い思いがある筈です。しかし、前述のようなワンマンで急成長をし
てきた経営者のそのカリスマ的考え方に組織の重要さを理解して頂くためには
フィフティ・フィフティ或いはそれ以上の感覚で接しなければならない事が多
かったですね。

皆さんに理解をしてほしいとまでは言えません。しかし、連盟は今や非常に大
きな団体となったのです。しっかりとした組織作りが必要な規模なのです。会
長氏が、一つ一つの事をご自身で決めたい気持ちは、嫌なほど理解が出来ま
す。しかし、それでは本来トップがしなければならない懸案の解決に必ず支障
が生じます。組織力の欠如はモラルの低下を増大し、その下降は急激なケース
が多いという事が1ファンとしての心配なのです。 
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今回、世渡り下手爺氏の発言を全文転載させていただいた。転載ということについてご本人の許諾を事前に得てはいない。手続論としては不備がある。従って、もし、ご本人から駒音やこのHPのトップにあるメール欄からクレームがあれば、この頁を非公開にしたい。その時は遠慮なく申し出てください。

細かいことを言えば、氏の↑コメントについて、私は全面的に、100%諸手を挙げて「同意」する、というわけではない。しかし、ここで、氏の主張されることは、その気持ちも含めて、よくわかるという面がある。おそらく世渡り氏はこのコメントについては、書き飛ばすというよりは、PCの向こうにいる不特定多数の読者を充分に意識されて、自身の想いを正しく伝えたいという強い希求を込めて、書かれたのだろうと私は思っている。

私は高校時代から今日に至るまで「書く」ということと密接に関ってきた。それが好きかと言われれば答に窮する面もあるのだが、苦にしていては仕事にならないから、出来不出来は別にして、慣れるということを自分に強いた面がある。小説であれノンフィクションであれ、興味のある分野はいくつかあるものの、何を読むにしても「書くために役に立つだろう」と思って読んできた。「読まないと書けない」という強迫観念のようなものからは、おそらく私はリタイアしてもこの点からは解放されることはない。

私は、ある時期まで、世渡り氏が駒音をはじめ、ネットに書かれたものをそれなりに読んできた。「囲碁・将棋チャンネル」という番組に出演された氏を画面を通じて拝見したこともある。もっというなら、近代将棋に連載された研究発表も全てではないが、以前、読んだ記憶がある。労多くして大変な作業をされている方がいると、ぼんやりとではあるが感じたものだった。

氏がここに転載したようなスタイルの主張を続けていかれれば、間違いなく氏の声に耳を傾ける方は増えるだろうし、氏の発する言葉は、批判としての一定の影響力を有する可能性があると私は思っている。以前のような「批判のスタイル」では、辛辣に申し上げるけれど「癇癪もちのおじさんがまた喚いている」というだけで、批判の矛先となる対象は勿論、世渡り下手爺の「主張」を分け入って読み込んでも、そこまでが精一杯で「しかしあの感情的な姿勢では」と、二の足を踏んでしまう。「わかるけどついていけない」ということにもなる。そのような「批判」は、本人の鬱憤晴らし以上のものには結実しない。だから余計に悪循環になってしまう。氏の人生経験をもってすれば、そのことは充分におわかりになるだろうと思って、私は今、この拙文を書いている。

米長会長は「人に任せるということが苦手というか、できない方なのではないか」私もそのとおりだと思う。ご本人は日記やその他で「任せたいのだが、出て行かなければならない」と愚痴めいたことを年中述べているが、それは実は少し違っていて「気になるから任せられない。気になるのは何故か。どこかで他者を信用できないから」だと私は昔から思っていた。

「米長さんという方は、90%じゃ駄目なんです。100%自分と同じでないといけない。異なる面がある人を側におけば運が逃げると、真面目にそう考えている面がある」「ただ、棋士というものは、大体において皆、そんなものですよ。何故かといえば、勝ち星もタイトルも全部、最後には自分が考えて考えて考え抜いて実績を作ってきたのです。グループやチームで相談して、合議して、何かを遂げたなどという経験は思春期から現在に至るまで、誰も持ち合わせていない。弱みをみせたら最後、淘汰されるという意識が身にしみている。だから何かを任せるなどというスタンスには終生、縁のない集団です。それは連盟だけではありません。LPSAも似たようなものだと私は思います。勝負師なんですよ。最後まで。だから外部の人間は、それをわかってつきあっています。まぁ、力関係は時々によって違いますけれど」

ある棋戦を主催する社の役員が、私にそう語ったことがある。私自身も実感としてそう思ったことがあった。こういうことを書くと、それこそ寅金氏から「政治好き」と皮肉られるのだろうが、例えば米長会長とN理事が、どうして一緒に仕事をやっていられるのかなどは、私は今でも不思議で仕方がない。

だからこそ、批判をする際には、批判する側が冷静さを失うことなく、事実は事実として、そのことと棋界の発展のバランス、ファンにとってはどうみえるのか。そのために犠牲が強いられていることがあるとするならば、具体的にはそれはどういうことなのか。そのことを世に問うたときに、マイノリティたる人々の権利が本当に奪われているのかどうか、それらを辛抱強く、問いかけるように、呼びかけるように、地道に進めていかないと、それは「力」には、結局はならない。

私は世渡り氏が転載したコメントに示している「組織論」についてはよく理解できる面がある。では、本来その組織に属している人々はどうして声をあげないのか。声をあげないというのは「怒っていない」ととられても同義だと一般的には受け止められる。世渡り氏はよくご存知だと思うけれど、大山康晴十五世名人に「印籠」を渡したのは、中原十六世名人だった。「厭なことを言ってくる」と、一言言い置いて。

おそらく中原名人がそう告げたから大山十五世は従った。米長永世棋聖や、それこそ芹澤九段では「鼻もひっかけなかっただろう」と私は思っている。独特の力学が働いた、その一瞬が大山名人の腹を決めさせた。

ただし、私は、批判勢力として羽生名人や森内九段、佐藤九段らに今、たちどころにそんな役割を求めることは無理だと思っている。大多数のファンは棋士にそんなことを望んではいない。私は、今のA級クラスの棋士たちには、いきなりではなく、様々な意見を集約し、理事会に具申し、改善できることをひとつひとつ積み重ねていくというぐらいが最善手なのだろうと感じている。冷徹なことを申し上げれば、外部の批判というものは、どれだけ積み重ねても、組織の内部を動かす牽引力にならなければ、力をもたない。それを本気でやるというのであれば、本当は「駒音」でもどこでも、web上に何でもかんでも晒すということが、どこまで有効かとなると、私自身は懐疑的である。何故かといえば、戦略や戦術や情報を全て相手に開示して戦うなどというメリットはないのだから。手の内をみせる戦いは、勝つためには有効とはならない。

別に私は世渡り氏に「米長批判」「連盟批判」をしてはいけない、などと言うつもりは毛頭ない。そこは誤解のないように願います。ただし、やる以上は不快感を与えるだけでは進展しないのでは、と考えているということです。ネットで企業が動いたという代表的事例として、私はある家電メーカーのクレーム事件を思い浮かべることがあります。取材したノンフィクションライターの本を読みもしましたが、結局、なぜ企業が動いたかといえば、経緯はどうあれ、カスタマーサポートセンター担当者の「暴言」がネット上に紹介され(それは決定的な証拠にもなりました)企業イメージに決定的に影響を及ぼすと経営陣が判断したからです。ネットを追いかけるかたちでメディアも腰を上げました。

つまり、こういう「決定的なもの」がないと、メディアというものは動かないということです。善し悪しはともかくとして。

今回、世渡り下手爺氏は里見三冠のファンをやめると駒音で宣言された。これは世渡り氏の「癇癪」だと私は思っています。何故か。少なくとも「強くなりたい」という棋士に「罪」はない、と私は考えるから。はっきり申し上げれば、そういう味噌も糞も一緒にした感情論では、世渡り氏の言いたいことは、どんどん届かなくなりはしないかと。

私自身は、おそらく現在の連盟は相当部分、米長会長を支持しているというか、頼っているのだろうという構図があるのだろうと思います。不満を有する棋士にしても、自分が「会長になろう」とはまぁ思わないというか、とりあえず連盟があって将棋が指せてそこそこ収入もあれば、まぁやりたい人がやりたいようにやれば、というのが実態でしょう。ならば、それで立ち行かなくなれば、その体制を許容し続けた組織全体の責任ですから、それならそれで仕方ないということです。ここは世渡り氏と私は相当違うかもしれません。「お前は本当に将棋を愛していない」というのであれば、そうではないと思いつつも特段、抗うつもりもありません。

何故かといえば、それを彼らが結局は選びとったのだと判断するからです。そうなれば「自浄作用」が働かなかったということを意味しますから、手の施しようがない。というか、そうなったからといって、私が将棋自体と離れてしまうことにはならないからです。PCソフトでも買って「ああ、今日も勝てなかったか」とソフトに悪手を指摘されながら、苦笑するでしょうし、もし、そうなって、石橋四段や蛸島五段がサロンにいらっしゃったならば、足を運んで指導対局をお願いするでしょう。私の周囲には、何故か、私より弱い方はいませんから、彼らと将棋を指したりもするでしょう。

ただし、将棋連盟が再生の道を歩むというのであれば、内容を拝見した上で、ささやかな支援というものをさせていただくことは、あるかもしれませんが。

長くなりました。

私は、世渡り下手爺氏が書かれたことについては批判的な立場で発言をしてきました。しかし、今回の発言については、私も含めて、少なからぬ読者は、おそらく好意的な立場でこの発言に接したと思います。

世渡り下手爺氏は、この蝉の額のようなサイトを訪れたのだろうと、私は推測しましたので、いわば手紙をしたためるようなつもりで、この一文を残すことにしました。

米長会長を結果的に容認している「将棋連盟」はみんな駄目で、それは敵だというのでは、おそらく世渡り下手爺氏の望む世界も結局は生まれないと感じます。組織というのは、そんなに簡単なものではありません。何故ならば、皆、そこに「生活」というものがあるからです。こんなことは、言うまでもなく、世渡り氏は、実は充分におわかりなのではないかと私は思います。おそらく人が「生きること」と「生活する」ということは違う。その狭間に聞こえる「軋み」を想像できなければ、変わるものも変わらない。

そうはお考えになりませんか。

青二才が生意気なことを申し上げたかもしれません。その点は、どうぞご容赦を。

                                 JC IMPACTU




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