2011/5/1〜色々な「物語」(〜4/30・掲示板開設までの間に)

日本将棋連盟の公益社団法人化について

次は私がコンピュータと対局します! という中央公論昨年12月号の記事をweb上で読むことが可能になっている。梅田望夫氏と米長会長の対談記事だが、例えば「駒音」で、このような記事ひとつ、藁人形氏が紹介していたら、喝采氏との「議論」(といえるものかどうかは別として)は、随分と違う「景色」になっていたのではないかと思っている。私はこの記事を雑誌で昨年読んでいたが、いつか紹介しようと思ってそのままになっていた。
私程度の検索能力で「みつけることが」できるものである。藁人形氏に検索不能とは到底思えない。

先日、駒音で
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1. 活きのいい論客派現れよ!  投稿者:金と銀 投稿日:2011/03/07(Mon) 12:14 No.30002 
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という「金と銀」氏の発言を拝読させていただいた。ネットコミュニケーションというのは摩訶不思議なところがあって、現れよ!と声を限りに叫んでも、論客派は現れない。では「現れない」からといって、誰も言いたいことがないかといえば、そういうわけでもない。ふとしたきっかけで、もう勘弁してくれよと思うほど、激論が飛び交うということもある。私は「金と銀さん」は非常に正直な方だなぁと思った。私などは「捻ている」面があるから、そういうことは思っても口にしない。気恥ずかしさが先に立つからである。また前述したとおり「叫んだから」論客派が参上するとは考えたこともないから、余計にそんなことは言わない。言うだけ寂しさが募るからである。

で、喝采氏と私は駒音の時代にも、それほど「やりとりをした記憶がない」ので、あまり存じ上げないのだが、藁人形氏を「駒音きっての論客」と思ったことは一度もない。ただし「論客」でなければダメだなんてことも全く思ってはいないので、この点は誤解のないように念押ししておこう。

私は「議論」すること自体に億劫さを感じたことはない。億劫だと思う人間は、掲示板を自ら開設したりはしないものである。しかし、だからといって自分が「論客」かどうかなどということを考えたことはないし、それ自体、別に自慢になるようなことでもない。

例えば「盤側」での直近の運営議論をしていた時に、私の展開した主張というものは、少数派だった。読み手のみなさんは、意外に思われるかもしれないが、運営会議室を開設した段階で、おそらく筒井さんは私とは異なる判断をされるだろうな、という強い予感がしていた。議論の主体者になれば、そういうことは自然とわかるものである。

しかし、それでも「主張すべきは主張する」ということをしておきたかった。でなければアイデンティティが自分の中で保てなくなってしまう。そうなれば「JC IMPACT」は「JC IMPACT」でなくなるということなのだ。

藁人形氏には、今回の「駒音」「盤側の談話室」「匿名大型掲示板」でも批判的な発言が残されている。これまた誤解されては困るのだが、盤側での運営議論で語られる方が「藁人形氏」ではなくとも、同一の事例であれば、私は同じような主張を行った。これは断言できる。

web上で発言すれば、その数が増えれば増えるほど、読み手は「発言者」をイメージする。主観であれ何であれそのことはついて回る。私に対しても「言葉になったもの」「ならなかったもの」含めて、読み手は「JC」という一人の言説者に対して様々な評価を自然と下していくものである。だから「言葉」というものに対して、私はおそらくみかけよりは、相当に臆病でもある。感情や勢いに負けて、言葉を吐くようなことはすべきではないと自戒しながら参加している。発言する以上は、読み手にもきちんと自身の主張が伝わるように努力はする。挑発をすることはあっても、嫌悪感を醸成するような発言は控える。この「論評」にしても、読者が一人もいなければ、そんなものは書いても仕方がない。

例えば、藁人形氏は「駒音」で「レッテル張りに終始して相手の発言機会を奪うやり方」に辟易している、という発言を残している。はっきり言えば、論客は「こういう泣き事をいわない」ものだと私は考えている。

何故か。実際の環境面において、藁人形氏は「駒音」に発言可能な状態が存在しているからである。駒音のローカルルールというものが、どういうものなのか、私はよくわかっていないのだが(笑)本気でやるというのであれば、管理者に了解を求め、そもそも「公益社団法人の延長戦上の問題」なのだから、堂々と表でやればいいことだと私はそう思って眺めていた。このあたりは、私と氏の感覚の違いなのだろう。

「発言機会を奪われるような状況にないにもかかわらず」「奪うやり方」と述べるのは「泣き事」だと私は考えるが、みなさんはいかがだろうか。

ただ、私はこのこととは別に「コミュニケーションの実相」という観点から、この問題を3/15開設予定の掲示板で取り上げてみたいと思っている。

さて「公益社団法人認定の問題」である。私は先月号の「将棋世界」の記事を読んで、これはもう決まりだと直感したので、認定されたことについては、とりたてての感想や感慨というものはない。公益ということで、社会的な評価も少なからずついてくるのだろうから、それに恥じない団体になって欲しいということを願っている。

昨日、公益社団法人といっても、一体どんなものがあるのだろうと検索をしてみた。大小様々である。経済団体もあれば、医療研究機関もあれば、芸術・芸能・文化のジャンルも存する。

「金と銀さん」は「対局など遊びではないか」という趣旨のコメントを残されている。大部分の人々の生活に直接コミットするようなものではないという主張だと、私は受け取った。しかし、引退棋士も含めて200人の彼らが作り出す、いわば特殊な技能としての「将棋」というものは、勿論、彼らにとって「遊び」ではない。ある意味、マイノリティと言ってもいいかもしれない。

そういう脈々とした文化的活動に対して、営利一辺倒となることを規制し、育成するということは大事なことではないかと私は思っている。人々の生活に「役に立たない」ものは、国は一切保護しないという社会構造は、私には何とはなく「寒い」ものを感じるのだ。

将棋にしても碁にしても「盤面の戦い」であり、それは「盤上に作られる技術の結晶」でもある。スポーツ競技のように「数万人の観客を前に興業化できるような形態ではない」強い棋士は対局に専念し、一線を退いた棋士は今まで以上に普及活動に邁進する。そのことによって、第二、第三の羽生名人、渡辺竜王のような棋士が誕生することを、私は願いたい。

さて、これは掲示板開設後に取り上げてみたいが、私自身は「キーマン」として、読売新聞文化部の西條耕一氏に担って欲しいと思っている。氏は「駒音」だけ読んでいると「米長会長の手先」みたいな雰囲気だったが、私の捉え方は少し違う。では「何故、違うのか」を3/15以降、ご紹介してみよう。

力には力が必要な時もある。私はそんなことを思っている。というか、内部だけではなく外部の刺激、とりわけスポンサーというメディアは強くならなければいけない。

勿論、具体的に紹介したいと考えている。

                                  JC IMPACTU



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